福岡県柳川市三橋町高畑の三柱神社は、初代柳川藩主立花宗茂公、岳父別次道雪、宗茂室誾千代の三神を祀った神社で、秋季大祭「おにぎえ」は、その名の示すとおり、かつて筑後地方屈指の「おおにぎわい」する祭りとして知られていました。
しかし、昭和から平成へ時代が移行するとともに、かつての賑わいが薄れ参拝者も減少。祭りの後継者も年々少なくなり、県指定無形民俗文化財に指定されている囃子山車「どろつくどん」や踊り山などの山車の引き手、舞手も事欠くようになり、神社では祭りの期間を平成7年以降、引き手を動員しやすい日程に変更せざるを得なくなりました。又、そういった状況の続く中、山車を継承してきた町内も参加を見送ったり、消滅していく町内が出てきたことを受け、かつての賑わいを体感していた地元の若手の熱い想い(昔の賑わいを取り戻し町内の枠を越えて誰もが参加して楽しめる山車の製作)が少しづつ動き出しました。
そうした中、私共は「おにぎえ」の歴史を学ぶための文献探しから始めましたが、残念ながら全くと言っていいほど関係文献が無く行き詰まってしまいました。(山車を保有する町内に残る文献等は門外不出)。しかし、日々の熱い想いが実り、柳川藩の絵師が描き残したと伝えられる明治時代初期の山車の絵巻物が見つかり、そこに描かれていた山車は当時24ケ町にものぼり「おにぎえ」の名前の由来通り大賑わいしていたことが証明されました。
その絵巻物の中に、4台(保加町・蟹町・上町・京町三丁目)まで減っていた「どろつくどん」の山車が当時は6台描かれており、時代とともに消失した山車を守ってきた人々の想いを形にすべく「どろつくどん」の製作に動き出しました。(参考までに佐賀県唐津市の国の重要無形民俗文化財「唐津くんち」の山車は約60年の時を経ながら次々に14台の山車が製作されています。)
それにともない各地に出向いて(佐賀県唐津くんち、長崎県長崎くんち等)祭りの事情や継承していくうえでの苦労や組織の構成等を勉強させてもらい、どの祭りもいろんな問題点を抱えながら時代に合った形に移行し、各地より多くの引き手や参加者を募りながら地元の熱意であれだけの盛り上げを図っていることを知り、あらためて「どろつくどん」の山車を持つ町内に想いを説明し、許可を願い、今までにない町内の枠を越えた会員制を基本とする組織体の山車の準備に取りかかりました。
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継承してこられた各町で守り通してこられたしきたりを享受頂き「どろつくどん」の基本(囃子、舞、所作、意味等)を学び、それぞれの町内で少しづつ違いがあることなどを知り、4町の指導のもと、山車の飾り付け、お面、衣装、小物、楽器等の準備を始めました。
並行して、7名の発起人と共に趣意書(どろつくどん保存会会長、奉納会会長、保加町、蟹町、上町、京町三丁目の各代表に先ず賛同を得る)に賛同してくれる会員を募り、平成9年11月30日約90名の会員と共に発会式を執り行いました。
平成10年1月11日に初総会を開催し「どろつくどん」のシンボルでもある鉾に飾る「龍」と「飛龍」の名称を審議可決。
平成10年5月10日第2回総会を経て、平成10年8月23日に保存会会長を始め、4町の代表者並びに関係各位のご臨席のもと、山車の展示、囃子・舞の披露、面の展示、経過報告等「飛龍どろつくどんの会」の披露を執り行いました。その中で、4町の代表から頂いたアドバイス等を参考に本番に向け更なる準備・稽古に励みました。
平成10年9月15日、飾り等も含め山車が完成し安全祈願を開催。熱い想いから動き出した山車「どろつくどん」が完成しました。数年の準備期間を経て、平成10年10月10日「飛龍どろつくどんの会」は172年の長い歴史を誇る「おにぎえ」に初奉納し、新しい1ページを刻みました。翌11日「どろつくどん」5台が勢揃いし「おにぎえ大競演会」にて皆様に初披露することが出来ました。
会規約の目的「本会は、おにぎえの伝統を守り郷土芸能の保存と推進、柳川市の発展に寄与することを目的とする」を守り、以降、三柱神社秋季大祭「おにぎえ」に毎年奉納。詩聖北原白秋先生の命日を偲び行われる「白秋祭」はもとより「博多どんたく港まつり」、北九州市「わっしょい百万夏祭り」、「水の祭典久留米まつり」、「久留米市城島ふるさと夢まつり」、「延岡今山大師祭」等県内外へも出向き、地方の祭りに積極的に参加し柳川をPRしてきました。
本年令和4年には発会26年を迎え、常に4町に敬意を表し、長きに渡り継承してこられた先人のご苦労や熱い想いに敬愛の念をもち、先輩から受け継いだ伝統を守り、新たに我が愛する郷土柳川の発展、活性化、青少年育成に寄与すべく日々精進しております。